① 保土ヶ谷宿は、先進的かつ躍動的な中心地だった
私は、保土ヶ谷宿を歩くたびに、このまちの宿場の完成度の高さと、今も昔もこの地に住む「保土ヶ谷ラブ」に感激します。
江戸時代、「人・もの・かね」がまちの中で程よくミックスして、町民文化を開花させた宿場が保土ヶ谷!(ちょっと褒めすぎ?)そう感じるんです!
今は、都心臨海部(横浜市西区・中区)が横浜の中心地のように思われがちですが、侮(あなど)るなかれ、17世紀から19世紀の約300年間、保土ヶ谷宿は横浜の先進的かつ躍動的な中心地でした。
時代とともに!保土ヶ谷開花物語
ここで保土ヶ谷宿の規模感を共有しておきましょう。保土ヶ谷宿は、日本橋から8里半(約34㎞)の場所に位置する4番目の宿場。東海道が整備された江戸初期は、宿並19町(約2.1㎞)、人口約3,000人、家の数558軒、旅籠(はたご)数67軒、本陣は、今も継承する軽部(かるべ)家1軒。脇本陣2軒、問屋場は1か所。隣の戸塚宿は、難所、権太坂が途中にあるものの、2里9町(約9㎞)と近距離。
保土ヶ谷宿は江戸末期までには、交通の要所として全国のお殿様やお侍、商人もご宿泊!金沢八景や杉田の梅林に物見遊山に出かける観光客でも大賑わい、近郷から集まる若人たちもどんどん増えて、にぎやかで豊かな町民文化が開花した宿場を形成していました。
② 松原商店街・天王町を歩く

さて、追分をスタート地点に東海道を歩きましょう、
ここは松原商店街のはずれ。右に曲がれば鎌倉時代からの街道でもある古東海道。相州道とも合流します。保土ヶ谷宿入口の江戸方見附までは、江戸の時代は松原商店街の名前の由来でもある、シーサイド。きっと潮風を感じながら気持ちよく歩けたと考えます。戦後の混沌とした時代からスタートした松原商店街は、「全国の商店街が元気がない」いわれる昨今でも、横浜を代表する「ハマの台所」。商店街ができた当初から、味噌の量り売りをしている「萩原商店」のおかみさんは今日も元気に、松原商店の楽しい話を語ってくれました。
東海道は、この商店街から天王町駅方向にまっすぐに伸びて、JR保土ヶ谷駅方向にまっしぐら。
さきほど記述した※相州道ですが、明治に入り横浜が開港すると、絹の道(シルクロード)として脚光を浴びることになり大いに往来を増やしたとのことです。
国道16号を渡ると、左に江戸方見附跡の説明板があります。見附とは、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしていて、本来簡易な防護施設であり、宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられています。
ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口の上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれていたそうで、近藤さん曰く、ここから道幅は3間(約5.4m)ほどに広がり、大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して行列をしたとか。
天王町の商店街を少し歩くと橘樹神社。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれ、天王町の由来ともなった由緒ある神社です。本殿の裏手には横浜最古といわれる青面金剛庚申塔があり、保存状態もよく近所の人々の信仰の厚さが伺えます。 天王町は、明治中期になると、富士瓦斯紡績(製糸工場)が、現イオン天王町ショッピングセンターのところで、明治36(1903)年に創業。まちは大いに盛り上がり、休みの日になると、従業員6,000余人がまちに繰り出し、てんやわんや。若い男女も多いところから映画館や用品を商う店舗が増えると同時に、所帯を持つ人のために、家具屋が多い商店街(シルクロード商店街)に。
③ 帷子川は暴れ川、でも発展の契機に

相鉄線天王町駅をこえると、東海道の当時を再現した、旧帷子橋跡のモニュメントパークがあります。江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、錦絵に描かれたり、歌や俳句に詠まれたりと、保土ヶ谷宿を代表する場所だったようです。
神戸(ごうど)町東部町内会長の栗原さんは「保土ヶ谷宿はまちの誇りです。この辺りは帷子川がよく氾濫し被害を受けましたが、昔の人はかなり苦労をして、この保土ヶ谷の地を大切に守ってきました。おかげで今はとっても住みやすい場所になりました。先祖に感謝しないと」と話してくれまた。もしかすると、保土ヶ谷宿の発展はこの暴れ川「帷子川」との戦いだけでなく、宝暦の富士山大噴火や度重なる大地震などの天災も見舞われましたがそこからの復興へのパワーが街の発展を支えたのかもしれません。
すぐそばの大門の信号機付近は、相州道との分岐点。左に進むと星川、二俣川、厚木へ行きます。海老名で青山通り大山道に合流し、大山詣りや八王子道への道となります。
分岐を行くと古東海道の交差するところに、手入れが行き届いた、とても品の良い顔の庚申塔があります。その奥が神明社。平安時代中頃の創建と伝えられ、横浜市内では最も由緒ある神社の一つとされています。天照大御神をまつる御本社のほか、豊受大神宮や境内神社が祀られ特に鳥居からの参道は樹々の緑と相まってとっても神秘的です。
相州道に戻り、古東海道沿いに進めば、天徳寺、大蓮寺、遍遍照寺などの寺町通りを抜けて、旧中之橋で旧東海道に戻ります。
大門から保土ヶ谷駅までの間は、整備が施されて、石のベンチや江戸方向を向いた武士の姿の「緑の車止め」は、今にも歩き出しそうでコミカルです。
④ JR保土ヶ谷周辺を歩く

JR保土ヶ谷駅から、商店街に入っていきましょう。この通りには、助郷会所跡、問屋場跡、高札場跡など案内サインが整備されていていますが、昔の面影がないのが残念です。そういえば商店街の通り沿いにマンションが多いのは、江戸時代の宿場の昔ながらの店の間口が大きかった名残ではないかと、当時の様子が浮かんできます。
保土ヶ谷宿の特色として、町民文化が花咲いた宿場だったのではないかと前述しましたが、江戸時代の宿内の店舗で売られているものを見ると、観光や旅の要素よりも紙・蝋燭・酒・醤油・燈油など日用雑貨の店舗が断トツに多いことが資料から推察できます。
少し歩くと金沢横丁の道標4基がマンションの一角に見えてきます。左を指差しして金沢八景や弘明寺、杉田の梅林、峰の灸に想いを馳せるのもの良いでしょう。黒船が浦賀に来航したときには、幕府の要人がこの石碑の前を馬の手綱を引いて「金沢道」の坂を駆け上がっていったとか。
⑤ 本陣、軽部家と保土ヶ谷宿

東海道に戻り、踏切を渡ると、旧東海道は右に90度カーブ。この突き当りが保土ヶ谷本陣跡です。当主の軽部さんに伺うと、軽部家は、代々「清兵衛」を名乗り、「本陣・名主・問屋」の役を約270年間11代にわたり職を務めたとのこと。さらに開港時には、横浜の初代総年寄に軽部家が幕府から任命され、横浜のまちづくりの先陣を担ったそうです。その際、保土ヶ谷の商人たち約25軒を引き連れて、横浜の開港場へ乗り込んでまちづくりに尽力したそうです。横浜の開港はペリーが来て、幕府が倒れ、明治政府がつくったということは教科書にも書かれていますが、保土ヶ谷宿の人々のパワーがあって、はじめて今の横浜があることを忘れてはならないと認識を新たにしました。
「あの17世紀からの新田開発で有名な、「平沼家」や「岡野家」も保土ヶ谷宿の豪商。横浜駅周辺も保土ヶ谷宿がなかったら今の発展はなかった」と、近藤さんが熱く話してくれました。
⑥ 宿場を歩き、上方見附へ

さて、国道1号線沿い歩くと、この通りは保土ヶ谷駅からの商人通りとは異なり宿屋通り。本陣、脇本陣、旅籠、茶屋などが軒を連ねます。籠本金子屋跡などは、格子戸や通用門などなんとなくその面影を伝えています。
また、街道沿いには、保土ケ谷町自治会との連携により、東海道愛好家向けに地域の皆さんがおもてなしをしている、もう一つのお休み処である「旧東海道保土ヶ谷宿お休み処」があります。来訪者に区内の見どころを紹介したまちあるきマップなどを配布したり、旅姿の衣装(三度笠・道中合羽・振分け荷物)の着用など。ここでは東海道缶バッチなども100円で買うことができました。
今回の旅のゴールは、一里塚と松並木・上方見附。平成17(2005)年、横浜市の第1回「ヨコハマ市民まち普請事業」に選ばれて、2年後、市民の手で一里塚と松並木の復元に成功。橋を渡れば、ケヤキが立派な外川神社があり、お仙人様の名で今でも地域に親しまれています。取材に協力をしてくれた保土ヶ谷町自治会長の内藤さんは、「日々ここで清掃活動をしたり、イベントをしたりと地域愛たっぷりの活動を仲間たちと一緒に年間を通じて頑張っています」と楽しそうに話してくれました。